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著作権保護期間に関する新しいアイデアを提案するよ

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情報管理LOGの@yoshinonです。
TPP11発効によって、日本の著作権保護期間が、2018年12月31日をもって70年に延長されました。今までの50年でも長いなと思っていたのに、さらに20年上乗せというのは、本来の著作権保護の考え方からいってもあまりにも、色々納得がいかない感じです。そこで、情報管理LOGとしては、ささやかながらない知恵を絞り、著作権保護期間に関する新しいアイデアを考えてみました。単なる妄想ですが、ツッコミ歓迎です!
一緒にこの問題について考えてみませんか?


  
【 著作権保護期間に関する新しいアイデアを提案するよ 】  

 1.著作権保護期間とはそもそも何なのか?

 2.TPP11発効で50年→70年に延長

 3.著作権保護期間に関する新しいアイデアの提案







checkmark.png 1.著作権保護期間とはそもそも何なのか?

まず、著作権保護期間とは、何なのか?について。

(保護期間の原則) 第五十一条 著作権の存続期間は、著作物の創作の時に始まる。 2 著作権は、この節に別段の定めがある場合を除き、著作者の死後(共同著作物にあつては、最終に死亡した著作者の死後。次条第一項において同じ。)七十年を経過するまでの間、存続する。

著作権法 | 国内法令 | 著作権データベース | 公益社団法人著作権情報センター CRIC


上の条文は、すでに改定されているものとなります。
この条文を読むと、作者が作品を創作した瞬間から始まり、作者の死後70年存続するとなっています。

著作者の権利そのものも考え方が2つあって、

・著作物は、著作者の自然権として捉える(ヨーロッパを中心にした考え)
・著作物は、著作物の独占的利用権を与えることによって、著作者に正当な利益が分配されることを促し、その結果として創作活動へのインセンティブを高めることとする(イギリス、アメリカを中心とした考え)

日本は、ベルヌ条約というものに加盟しており、基本的にベルヌ条約で定める期間より短くならないようにするとしています。その「ベルヌ条約」自体は、前者のヨーロッパを中心とした考え方が元になっており、なんと「レ・ミゼラブル」のヴィクトル・ユゴーの発案が元になっていたりします。このあたりの経緯を読むと面白いです。

文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約 - Wikipedia

上記の件を読むと、ベルヌ条約により日本は、最低でも著作者の死後50年以上は、守る必要があるのです。(※世界貿易機関(WTO)加盟国は、ベルヌ条約に加盟していなくても、その主要部分を遵守する必要があります←大事!)

そして、なぜ50年なのかというと

ベルヌ条約7条(1)によれば、加盟国は、著作権の消滅までの期間を最低でも著作者の死亡から50年としなければならない。著作者の死後50年まで著作権を保護する趣旨は、著作者本人およびその子孫2代までを保護するためであるとされている。

著作権の保護期間 - Wikipedia


子孫2代分までというのが、今の時代に合っているかどうかもはや疑わしいですよね。これが発効したのが、1887年なので、130年以上前ですからね。寿命も延びてるし。

さて、著作権保護期間ですが、これは1つの大きなジレンマを抱えています。それは、

・著作権者の権利(利益)を守ること
・著作物の利用促進による社会的利益を上げること


という相反する利益を守らなくてはいけないからです。
確かに、著作権が守られなくなれば、コピーし放題、改竄し放題で、そもそもの著作物を作ろうというインセンティブが失われます。しかし、著作者の権利を保護しすぎてしまうと、社会における知的流動性が失われてしまい、社会全体の損失になってしまうことも考えられます。
つまり、著作権保護期間というのは、その微妙なバランスによって成り立っているものとも考えられます。





checkmark.png 2.TPP11発効で50年→70年に延長

さて、上でも書いたように、昨年の12月31日にTPP11が発行されたことにより、著作権保護期間が50年から70年に延長されました。

平成30年12月30日施行 環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定(TPP11協定)の発効に伴う著作権法改正の施行について | 文化庁
平成30年12月30日施行 環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定(TPP11協定)の発効に伴う著作権法改正の施行について | 文化庁





私自身の感想としては、著作権法期間の70年というのは長過ぎるように思われます。ベルヌ条約が発効された130年前の頃にはインターネットは、ありませんでした。しかし、現在は、著作物はネットを駆け巡り瞬時に伝播されます。つまり、著作物の消化速度としては、130年前では考えられないほどの速度になってきているのです。そう考えると、社会的還元という側面で、若干機能不全に陥っている感じがします。私見ですが、著作権保護期間は、20年から30年が妥当ではないかと考えています。





checkmark.png 3.著作権保護期間に関する新しいアイデアの提案

さて、ここからが本論です。
私は、著作者の権利が守られるべきではないとは考えていません。むしろ、絶対にある程度は守られるべきだと考えています。しかし、上でも述べたように、過剰な保護は社会全体の活力を落としてしまいます。そこの辺のバランスをとりつつ、ミ○キーマウスなどの著作権で多額の利益を上げている企業にも配慮したような新しい著作権保護体系がないかと考えてみました。

1.著作権は、表現と同時に発生する。
2.著作権保護期間は、作者の死後20年から30年とする。
3.ただし、それ以上の著作権の保護期間を延長したければ、その著作物によって得られる利益から、規定の割合に応じて、各国の著作権を保護する機関に収めなくてはならないとする。
4.その機関は、得られた利益を、必ずその国の著作物の権利保護と文化振興に還元するものとする。
5.著作権保護期間の延長をするたびに、徐々に納めなくてはならない金額が上昇するものとする。
6.著作者の死後70年において、ほぼ著作物による利益と支払う額が同額になるような割合に設定する。そうすることによって、著作保護期間70年以上を主張することが無意味になるようにするのである。


以上が、私のアイデアです。
これを施行することによって、著作物によって作者の死後利益を得ようとしても徐々に制限されることになり、徐々にそれ以上の著作権保護期間を延長するインセンティブが失われていくという仕組みです。
こんな感じね。

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著作権保護と社会への利益還元、そして著作権保護機関が長すぎる故の社会的硬直化を防ぐ良い方法では無いかと思うのですが、いかがでしょうね?




 eyeglass2.png 情報管理LOGの眼
 ベルヌ条約自体が古くさくなってきているかも?

私は、ベルヌ条約自体が、すでに時代に合わなくなってきていると感じています。この130年間の技術革新を鑑みても、仕組み自体をアップデートしても良いのではないかな?と思っています。とはいえ、多くの利益がらみの思惑が交錯して、なかなかまとまらないような気もしますが…。難しいね!



最近、読んで面白かった漫画!

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オンライン学校とその限界について

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情報管理LOGの@yoshinonです。
インターネットが出始めの頃に、「もう知識は、ネットだけで良いのではないか?」ということがまことしやかに囁かれました。しかし、残念ながら、未だにその兆候は見られません。そして、先日ある記事についたはてブ(はてなブックマーク)に「教員は、全員解雇して、ネットで学ぶようにしたらいいじゃん」みたいなコメントが付いていて、オンライン信仰はかくも根強いのだなと呆れが半分、どうして暴論がありうると判断するのだろう?と疑問が半分でした。
そういうわけで、今回はオンラインで学ぶことと、その限界について書いていきます。


  
【 オンライン学校とその限界について 】  

 1.N高の盛り上がり

 2.オンラインで学ぶということは、どういうことか?

 3.オンライン学習の限界

 4.学びの幅の確保







checkmark.png 1.N高の盛り上がり

オンラインで学ぶということについての一つの成功事例に最近ではN高があります。
N高って何?という人もいるかと思われますが、これはドワンゴが開設した通信制高校にカテゴライズされるオンライン学校です。

N高等学校 | 通信制高校(広域)・単位制


これほど、派手な事例でなくても、オンラインで学ぶ環境が、徐々に整いつつあるというのは確かだと思います。
例えば、語学系などは、もはやオンラインで学ぶ方が多いかな?ぐらいですよね?

こんなのとか



こんなの。



留学した方が、すぐに覚えられるかもですが、費用対効果を考えた時に、オンライン学習も悪くないと思えます。
実際にマンツーマンで指導してもらえるならば、なおさらです。




checkmark.png 2.オンラインで学ぶということは、どういうことか?

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さて、オンラインで学ぶという可能性自体は、私は全く否定するものではないです。むしろ、ものすごく前向きですらあります。自分自身もテクニカルな面について知りたいと思った時に、オンライン上で学び解決する割合が高くなってきました。何といっても、「いつでも」「どこでも」学べるというのは、オンラインの強みですよね。私自身も朝方人間なので、早朝に色々調べ物をしたり、勉強したりしています。早朝の4時ぐらいからやっている学校なんてないですもんね。
そういう意味で時間や場所にしばられず、学べる環境が整うというのは、すごく良いことだと思うのです。

また、そういう「知」にアクセスするコストも、(検索の末、そこにたどり着くコストを度外視すれば)無料だったり、破格の値段でやっていたりするので、かなり低いと言えます。
また、関連知識へのアクセスも容易で、得たいと思う知識を広げるのにも、まあまあ適しているかな?とは思います。

現にTEDでも取り上げられていましたが、貧困地域にネットにつながるPCを誰でも触れる状態にしておくことによって、知へのアクセスができるようになり、「学習する意味」を掴むことで、その地域の学力向上が図れたという事例は面白いですね。



これは、これで面白い試みだし、世界を見渡せば、学校すらままならない地域も存在します。そういう経済格差が、教育機会格差つくり出すというのは、実際に観察される状況です。そして、教育に携わる者も経済格差によって富める地域(国)には、優秀な教員が多く存在し、貧困地域(国)には、そもそも教員がいないという格差がもたらされるというのも事実です。その時に、大学の講義を世界に無料で公開する。初等教育の授業をオンラインで提供するというのは、格差是正の一助になるのは間違いありません。

さらに、地域格差・経済格差による優秀な教員の偏在を是正する取り組みとして、オンライン(サテライト講座も入れて良いと思う)でそういう人材の偏りをなくす方向は悪くないと思うのです。




checkmark.png 3.オンライン学習の限界

先程から、オンライン学習の良い面ばかり取り上げているけど、じゃあオンライン学習いいじゃん?ってなるかもしれませんね。

しかし、オンライン学習は万能ではありません。むしろ、オンライン学習のそういう良い面ばかりに目を奪われて、

オンライン学習は、万能だから、ほとんどの教員を解雇して、優秀な教員のオンライン授業にしよう


などという妄想を持つことは、危険だなと思えるのです。

1.能動性が必要とされる
基本的にオンライン学習というのは、能動性が求められます。
どういうことかというと、

学ぼうとする意志がなくては学ばない

ということです。
ところが、学校というのは、(皆さんも十分ご存じの通り)様々な教科というコンテンツがパッケージされた強制機関なんですよね。強制機関と書くと、多少誤解を与えてしまいそうですが、

学校は「時間・場所・内容」が決められている

のです。そういう意味では、強制機関と言えなくもないですよね。好きな時間に好きなところで好きな教科だけをやれるワケではありませんから。

好きな教科も苦手な教科も全てパッケージとして受講しなくてはいけないというのは、実はすごく大切な事で、結局、何が人生に役立つのかということを人生の初期段階では決めること(予想すること)ができないのです。皆さんも経験ないですか?苦手だったけど、やってみたら面白さに気づいたなんてこととか、学生時代は苦手だったりいやだったけど、社会人になった時に必要だったと気づくなんて山ほどあるはずです。

人生の初期段階において、様々な体験を多少の強制力をもって、触れさせるという経験は、決して無駄ではないのですよね。よく教科の必要不必要性だけで論じる方がいますが、そういう人はこの漫画でも読んでろ!と言いたいですね。




さて、ではオンライン学校はどうかというと、そこまでの強制力を伴いません。むしろ、視聴する側の能動性に委ねている面が多いです。数日、オンラインの講座を観なかったからといって、電話がかかってくることもないしね。
むしろ、オンラインの学校は、学ぶ意欲が高い人ほど向いているのではないか?と思っています。



2.相互コミュニケーションに欠ける
一番のネックはココですよね。
オンライン学習は、基本的に講座ビデオ視聴がメインになったりします。1対多の一方的な関係です。

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確かに学校も1クラス40名ぐらいでの1対多なのですが、そこには相互コミュニケーションがあります。

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もちろん、チャットルームやeラーニング的な定型のコミュニケーション込みの学習などもありますが、学校の教室における雑多なコミュニケーションも含めた相互コミュニケーションというのは、存在しません(いや、私が知らんだけなのかもだけど)。

そして、実際に人に会ってコミュニケーションするときの情報量は、チャットなどで得られる情報量と比較ならないぐらいに多いのですよね。そして、学校と同じぐらいのコミュニケーション量をオンラインで確保できなくもないけど、コストがバカ上がりし、オンラインでやる意味が消失するというのは、ジレンマと言えますね。

逆に言えば、相互コミュニケーションを取ることができないような黒板に向かって話すだけの機械のような教師は、オンライン学習以下の存在とも言えます。




checkmark.png 4.学びの幅の確保

さて、オンライン学習に対して否定的な意見ばかり述べていますが、実際のところはそこまで否定的な感想は持っていません。一番最初に紹介したN高だって、不登校だったり、働きながらでも学びたいというニーズに見事に応えていると思います。

この数年のeラーニングの盛り上がりから、義務教育でもeラーニングを取り入れているところも増えてきました。実際、我が家の子どもの学校でも家庭学習用のeラーニングがスタートしました。

従来型の学校というスタイルは、維持しつつ、学びの幅の確保というのが必要だと思っています。学校では、平たく幅広く、様々な知識を体験的に学びつつ、オンラインでさらに深めたい人が深めることができるという姿が良いのではないかと考えています。

塾がそれに当たるって?
まあ、5教科だけが学びではありませんから。




eyeglass2.png 情報管理LOGの眼
 学校は実はコスパ良しなんだよね

従来型の学校に対して厳しい意見を述べる人が多いですが、ではそれに変わるだけの教育システムを組み上げることは可能かというと非現実的だと思います。というか、そういう意見をいう人達は、日本の教育システムがめちゃくちゃ世界的に見てもコスパ良しの超優秀って事実を知らないのだろうな…と思ったり。

2015年のOECDの学習到達度調査。
日本は、シンガポールに次ぐ2位だって知ってた?

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※画像引用:OECD 生徒の学習到達度調査~ 2015 年調査国際結果の要約~


に対しての教育費にかける公的支出割合。
日本最低ですよね…。


※画像引用:日本の教育への公的支出、34か国中最下位<国別割合比較表> | リセマム

日本…。って感じですよね。
ここ最近、教員のブラック企業ぶりが明らかになってきて、なり手がいない問題なんてのも大きく取り上げられてきていますが、とても優秀な教育システムを維持すべきだとは思わないのかな?と思ったり。

義務教育崩壊へ。教員が忙しい?嫌ならやめろ!代わりはいくらでもいる・・かと思ったら、誰もいなくなってた件。



思考の速度と入力方法について

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情報管理LOGの@yoshinonです。
皆さんは、何で入力をしていますか?
一昔前だったら、キーボード一択だったわけですが、現在だと音声入力やOCRなど様々な入力方法があります。その中でも私は、音声入力をすごく愛用しています。
この音声入力をやっていると、思考の速度を追い抜かしていく瞬間を感じることがあります。今回は、音声入力を始めとして、「思考の速度」と入力方法について考えてみたいと思います。


  
【 思考の速度と入力方法について 】  

 1.音声入力についての記事

 2.思考の速度を追い抜かす瞬間

 3.キーボードの場合

 4.フリック入力、手書きの場合

 5.アウトプットの速度







checkmark.png 1.音声入力についての記事

ここ数日、連続して音声入力関係の記事が私の目に飛び込んできました。
1つは、勝間さんの記事。

WindowsのキーボードにAndroidタブレットを使うのは本気で快適でした。インテリジェントキーボードになります。今年最大のハックかも。 - 勝間和代が徹底的にマニアックな話をアップするブログ

いやぁ、驚かされますよね。
キーボードをなくして(というかメインで使わなくして)、その代わりAndroidタブレットでRemote Mouseによって、音声入力をメインにしていくという発想の転換!
正直、そこまで思い切って舵を切ることはできません。
そんな気持ちをツィートしました。




ちなみに、Remote Mouseというのは、スマホでPCを操作できるという神アプリですね。すごいです。


Remote Mouse

Remote Mouse

Yao Ruan無料posted withアプリーチ




さて、もう1本。
こちらは、倉下氏のScrapboxから。

タッチタイピングは早すぎる - 倉下忠憲の発想工房
タッチタイピングは早すぎる - 倉下忠憲の発想工房





こちらは、「数学ガール」の結城浩氏のメルマガからの引用とそれに対して、倉下氏がどう考えているのかについて。タッチタイピング(キーボード入力)は、早すぎて手書き感が薄れていくのに対し、フリック入力は手書き感に近い感覚だという結城氏の言葉に対して、

「ゆっくり」は悪いことではない

と書いていて、おぉ、なるほど!そうかも知れないと思い直すきっかけになりました。いや、実際そう考えていたからこそ、未だに手帳というアナログメディアを大事にしているわけだし、手書きだからこそ良いことを感じていたはずなんですよね。それを再認識させてくれた文章でした(というか、アウトラインかな)。

上の勝間氏の記事は、限りなく思考の速度に近づけていくためのアウトプットの方策。
そして、下の倉下氏の記事は、そもそも思考の速度ということについての問い直しでした。



checkmark.png 2.思考の速度を追い抜かす瞬間

音声入力をやっているからならば、ちょくちょく遭遇する出来事があります。それは、入力が「思考の速度」を追い抜かす瞬間が訪れることです。

そして、追い抜かした瞬間に訪れるプチフリーズ。

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吐き出すことがなくなったのではなく、思考から吐き出すために使っていた脳のバッファがなくなった瞬間に訪れる感覚ですね。
だから、バッファが確保されれば、また話し続けることは可能になります。思考が失われたわけでも、途切れたわけでもありません。ちゃんと思考は機能しているのですが、アウトプットとしての音声言語になるための時間的タイムラグが、ちゃんとバッファとして確保されていないと、止まってしまうのです。

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通常の会話では、プチフリーズが起きないのは、音声入力のような速度感で話していないからなのかもしれません。つまり、脳のバッファがある程度確保される速度感で話していると言うことかと思うのですよね。だから、早口言葉などは、脳のバッファに対するエラーを誘い出された状態なのかな?と思っています。

私は、音声入力が現状最速の入力手段だと思っているのですが、思考速度と入力速度の間にあるバッファの確保というのが、課題だと感じています。




checkmark.png 3.キーボードの場合

では、キーボードの場合は、そういう瞬間がないかというと、やはりありました。
ダーーっと打っていて、パタリと指の動きが止まる瞬間です。

しかし、それほど気にならなかったのは、やはり「速度」なんですよね。きっと、キーボードを超速で打てる人は、音声入力で起きるプチフリーズと同じ悩みを持っているのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?

キーボードと文体という意味では、私は村上春樹氏が昔は手書きだったけど、ある時期からMac(ワープロ)に切り替えて、多少なりとも変化があったというようなことを書いていたという記憶があります。どちらかに書かれていたような…。




その文体の変化は、手書きとワープロ(キーボード)という物理的な質感の違いによるものなのか、それとも速度感の違いによるものなのか、それともアウトプットされるメディアの違い(紙とディスプレイ)なのか、分かりませんが、どれもそれぞれ相互に影響を与えているような気がします。




checkmark.png 4.フリック入力、手書きの場合

では、フリック入力や手書きの場合は、どうだろうと視点を移動してみます。
先ほどの結城氏の言葉では、フリック入力は、手書きの感触にに似ているということを書いています。

”フリック入力だといったん手を介して書く感覚です。一つ一つの言葉を積み上げていく感じ。”

確かにキーボードでの入力の場合は、脳内の思考による音声言語を直接打ち出す感覚があります。しかし、手書きやフリック入力の場合は、どんなに早くてもその間にかなりのタイムラグがあります。そのため、一つ一つの言葉が、脳内で再吟味される時間的な余裕も生まれます。この「言葉を積み上げていく」という表現は、すごくイメージに近いなと思いました。

文語体と口語体という違いが生まれるのも、実は手書き文化が積み上げたところから発生したと考えるのが良さそうです。
ありえないことですが、もしも人類の初期から文字を音声入力とかで出力できる文化であったならば、きっと文語体は発生しなかったのではないか?と思うのですよね。




checkmark.png 5.アウトプットの速度

もう一度、整理すると

・音声入力:思考の速度と同じかそれ以上
・キーボード入力:思考の速度に近い
・フリック入力または手書き:思考の速度よりもかなり遅い


となると思われます。

音声入力>キーボード入力>>>>フリック入力≒手書き

となるのでしょうかね?
まあ、フリック入力に関しては、早い人は相当に早いですから、キーボード入力との差は少し埋まるのでは無いかと思います。

そう考えると、

アウトプットの速度

というのが、要素として大きいのかな?と思います。
そして、それがアウトプットされるものの差になってくるのかなと。




eyeglass2.png 情報管理LOGの眼
 思考の速度が問われてる?

音声入力を使い始めて、思考詰まりみたいなプチフリーズには、かなり悩まされました。過去形で書いていますが、現在進行形です。
この原稿の元原稿も音声入力で書いていますが、やはり何度かプチフリーズしてしまいました。もはや、入力方法が思考の速度に近づいていることを考えると、出力の大元である思考の速度が問われているのかな?と思うようになってきています。それはそれで、ちょっとこれから大変だなと思うようになってきています。





サブスクリプションとその外側で~私がサブスクリプションを辞めた理由

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情報管理LOGの@yoshinonです。
今やSpotifyやYouTube Music、Netflixなど、定額制サービス(サブスクリプション)が花盛りです。
利用されている方も多いのではないでしょうか?私も音楽定額制をはじめとして、いくつか使用していました。しかし、現在では、ほぼサブスクリプション系のサービスを一時的にやめています。
それは、使っているうちにジワジワと感じた違和感と、自分のニーズがマッチしなかったからです。今回は、サブスクリプションとその問題点について書いていきます。



  
【 サブスクリプションとその外側で 】  

 1.サブスクリプション使っていますか?

 2.サブスクリプションは、最初のうちは楽園そのもの

 3.優しい地獄

 4.所有感の希薄化







checkmark.png 1.サブスクリプション使っていますか?

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今やサブスクリプション全盛期というぐらいに盛り上がっていますが、皆さんは使っていますか?

サブスクリプションって何?

という人もいるかもしれませんので、一応説明。

サブスクリプション方式はビジネスモデルの1つ。利用者はモノを買い取るのではなく、モノの利用権を借りて利用した期間に応じて料金を支払う方式。

サブスクリプション方式 - Wikipedia


例えば、音楽であったら、

Apple Music
Spotify
AWA
Google Play Music
Amazon Prime Music

とかですね。
動画だったら、それほど山のようにあります。

Netflix
YouTube Premium
Amazon Prime ビデオ
Hulu
dTV

とかとか、まあ色々あるわけです。
それ以外に、本の読み放題サービスであるKindle unlimitedとか、百科狂乱かよという状態です。私もGoogle Play MusicやKindle unlimitedなどを使っていました。

後述しますが、今は辞めてしまいましたが。



checkmark.png 2.サブスクリプションは、最初のうちは楽園そのもの

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さて、サブスクリプションを使った方は、わかると思うのですが、使うとめちゃくちゃ快適なんですよね。月額料金を払うと、あとは何も考えずに、音楽だったらどんどん聴けるし、本だったらどんどん読めます。それこそ、一生かかっても聴き切れないぐらいの量があるし、読み切れないぐらいの本があります。
映像だってそうでしょう。

私も御多分に洩れず、普段聴いている音楽からレコメンドされる音楽をどんどん聴きまくりました。
たぶん、普通に生活しているだけでは出会いなかったアーティストとの出会いもありました。本だって、雑誌や漫画、本などとりあえず手当たり次第に読みたかったものを漁りました。

もうね、めちゃくちゃ楽しいのですよ。
だって、今までそれなりに金額がかかるコンテンツを好き放題、聴きまくれるし、読みまくれるのですから。
皆さんもきっと、これを体験するとたまらないものがあるはずです。

しかし、
私は辞めてしまいました。



checkmark.png 3.優しい地獄

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なぜ、辞めてしまったのか?

理由としては、サブスクリプションの限界を感じたからです。

のめり込んで、色々聴いていくと、はたと

「アレ?このアルバムないんだ」
「この音源は、収録されてないのか」
「このアーティストの曲は、1曲もないのか…」


ということにすぐにぶち当たります。

Kindle unlimitedは、読みたいのを漁りまくっていて、ふと気付いたら

「読書の範囲が狭くなっている」

と気付いたのです。

そう、まるで生け簀の魚や牧場の家畜のように、柵の内側は快適そのものなのですが、その肝心の柵の外側の世界がどんどん失われてくる感覚に襲われたのです。快適なので、ついつい長居をしたくなるのですが、気づくと柵に囲われた生活に満足しきってしまう自分に気づいてしまったのです。
ぬくぬくと優しい温もりに包まれたまま窒息させられるような感覚。

ついつい、Kindle unlimitedの範囲の中から本や漫画を選んで読んでしまう。
ついつい、Google Play Musicで提供される音楽を選んでしまう。


あまりにも膨大で柵の存在になかなか気づけない(いや、アンリミは気づくか)のですが、そこには提供されない不在の音楽や本や漫画や映像があるのです。

今日は、20年前のあの曲が聴きたい気分なんだ…。
私が読みたいのは、ここでお勧めされているものではないんだ…。
あのアルバムに収録されていた特別音源が聴きたいんだよ…。

という心の声が、あっという間に

あのアーティストが好きな人は、これも好きですよね?
この漫画の新しいの読みませんか?


という洪水に押し流されそうになるのです。



checkmark.png 4.所有感の希薄化

もう一つ、私がサブスクリプションを辞めるきっかけになったのは、所有感の希薄化を感じたというのも大きいです。

iTunesにしても、CDショップでも、何か曲を買うときは、ちょっとした心の後押しがあって手に取り、そして「お金を払う」というアクションを通して、手に入れます。
そこには 自分で購入したという確かな感触が残ります。
そして、同時に

自分のコレクションであり所有している

という感覚が得られます(iTunes StoreもKindleも実は、厳密には所有ではないのだけど)。
しかし、サブスクリプションで聴く音楽や本や漫画は、所有感は一切ありません

所有感ってそんなに重要??

と思われるかもしれませんが、少なくとも私の中では重要な要素だったことが分かったのです。
サブスクリプションで音楽を聴いていたとき、その1曲1曲は単なる消費物になっていました。そう、一番近い感覚は、ラジオで聴いているのと大差ない感じ。右から左に流れていく1曲1曲は、単なる消費されるだけの音楽で、価値観はただ下がりでした。

なので、自分が本当に聴きたい曲や本は、自分で自分の手で買おうと心に決めました。
これが、古い脳の考え方なのか?単に慣れていないだけで脳が、アップデートされていないだけなのか?分かりませんが、消費物として流すのは、なんとなく嫌だなと思ったのでした。





eyeglass2.png 情報管理LOGの眼
 頭が固いだけなのかもしれない

一番最後にも書きましたが、私は単にアップデートされていないだけなのかもしれません。もしかしたら、今まで発表された音源やこれから発表される音楽全てが、サブスクリプションに移行したら、そう思わなくなるのかもしれません。生まれた時から、サブスクリプションが当たり前で、それ以外がない状態だったらそんなことすら思わないのかもしれません。たぶん、私はそういう過渡期の人間だからそう感じているだけなのかも?と思っています。
しかし、読みたい本や漫画は、1冊ずつ選んで、それごとに対価を払うし、聴きたい曲は、選んで自分の意思でその曲に対する対価をその都度支払いたいと思っています。少なくとも今は。




「人間である」という認識の限界についての思考実験

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情報管理LOGの@yoshinonです。
今回は、いつもの情報管理LOGとは趣向を変えて、思考実験をしながら深遠な問いについて考えていきたいと思います。きっと、哲学の世界では、議論されつくされ、まだ議論が続いている分野だとは思いますが、テクノロジーと人間の想像力が、そろそろ哲学に追いつきそうな気配なので、素人思考ながら考察していきます。
もちろん、SFクラスタや哲学クラスタの皆さんから見たら総ツッコミ必至な内容かもですが、ぜひ全力でのツッコミお待ちしております。むしろ、「こんな本を読んでみて!」と教えていただければ、勉強させていただきます。



  
【 「人間である」という認識の限界についての思考実験 】  

 1.生物としての人間

 2.脳の完全シュミレート

 3.遺伝子の容れ物としての人間

 4.人工生命体

 5.情報生命体









checkmark.png 1.生物としての人間

前文だけでは、イマイチ今回の意図について伝わらなかったのではないかと思ったので、再度、趣旨説明します。
今回の記事は、どこまでだったら、それが「人間だと言える」と許容できるかどうか?という思考実験です。
んーそれでも、伝わらない?
では、例をあげながら、書いていきます。

2020年にオリンピックとともにパラリンピックが開かれます。
私は、毎回、パラリンピックでとても感動してしまいます。それは、体にハンデを背負いながらも、それを物ともせず(実際はすごい苦労されているのでしょうけど)スポーツに打ち込む姿が、美しいと感じるからです。私たちは、彼らのことを「人ではない」とは決して思いませんよね?
ある種の宗教によっては、一切の臓器移植やそういう身体的なハンデを補うものを拒否するという教義をもつ人もいるかもしれませんが、それでも多くの人は、身体のハンデを補う術があるならば、積極的に使った方が良いだろうと考えているのではないでしょうか?

最近では、ハンデどころか、人の能力を上回る義足なども登場しています。





TEDに出ていたこの方なんて、すごいですよね。




さて、ここからいよいよ今回の思考実験を始めていきます。
皆さんは、どれぐらいの体のパーツの入れ替えを許容できますか?

足は?手は?心臓は?

色々な教義や考え方があるかもしれませんが、私は基本的に賛成です。
では、科学的に進歩して、ほとんどを人工臓器などで置き換えができるとしたら、どうでしょう?

そこで、第1の心理的な障壁の一つに、「義体」があるのではないかと思います。
例えば、攻殻機動隊では、主人公の草薙素子は、脳以外は全て人工の義体でできています。




考える主体である「脳」があるのだから、それは人間だろう

と思えます。
しかし、もしも義体が人間の形をしていないとしたら?
例えば、どこからどう見ても、犬にしか見えない義体の中に人間の脳が入っていたら?
前述の攻殻機動隊では、こんな義体をもつ「人」が出てきます。真ん中の彼ね。

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これは、人間でしょうか?
パッと見で人間と認識できないかもしれません。それどころか、よくよく調べないと「人間」だと認識できないかもしれません。

先ほどの犬の義体に入った人間の例を出しましたが、もしも発話もできず「ワンワン」としか声が出せなかったら?
それでも、人間としての思考は、しているとします。しかし、もはや誰も見かけからは、人間とは判別できません。内部で人間と同様の複雑な思考をしていたとしてもです。少しずつ境界が、ぼんやりしてきたのではないでしょうか?

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それでは、逆に考えてみましょう。
犬の脳を人間の形をした義体に入れたら、それは人間でしょうか?
きっと、皆さんの大半は、

「それは、さすがに人間じゃないだろ」

と思う人が多いのではないでしょうか?

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形としての「人」ではなく、思考する主体としての「人」こそが、人の本質ではないか?思ったからですか?
では、無脳症の赤ちゃんは、どうですか?

無脳症 - Wikipedia
無脳症 - Wikipedia






彼らは、人間ではないのでしょうか?
私は、彼らにも人権があるし、人であると思う自分がいます。そして人を構成する要素は、どんどん曖昧になっていきます。




checkmark.png 2.脳の完全シュミレート

思考する主体こそが、人間ではないか?と考えた人にとっては、人が人たらしめるのは、少なくとも形状ではなく、「思考」の有無が大きいのではないか?と考えたからではないでしょうか。

では、ここから2つ目の思考実験です。
現在、コンピュータは、日進月歩で進歩し続けています。以前だったら考えられないようなものもシュミレート可能になってきていますよね?
もしも、これからさらに高機能化していき、人間の脳の完全なシミュレーションが可能になったとしたら、そのコンピュータは、人間と言えるでしょうか?もちろん、ニューロンの発火なども、全てシミュレーションしているとします。つまり、人間の脳に起こりうることが、全て起こりうるのです。

もしも、Aという人の脳を完全シミュレーションできたとしたら、そのコンピュータ内にあるA'は、何なのでしょうか?

さらに、もう一歩進めると、もしもその完全シミュレーションした人格(脳)を、人にしか見えない義体に入れたとしたら、それは人でしょうか?

体の中は、血が流れているわけではなく、電気で動いているだけだとしたら?

いや、それはアンドロイドだろ!

とツッコミが入りそうですね。
しかし、その頭の中には、あなたのと同じように(もしかしたらあなた以上に)思考する脳の完全シミュレーションであったとしたら?

あなたと同じように悲しみ、あなたと同じように笑い、あなたと同じように悩むとしたら?
もしも、人と見分けのつかない義体に入っていたら、それは人でしょうか?

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しかし、一番の違いは、「コピーが可能」だということです。
デジタルで再現されるものは、基本的にコピー可能であるという前提ですが、A'だけではなく、A ''であったり、A '''が、同時に存在可能になるかもしれないことを示唆しています。

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そのあたりは、「AIの遺電子」でも語られていますね。
あの世界の中では、人権(?)が認められ、平等に扱われています。皆さんは、アンドロイド(ヒューマノイド)が、存在しうる世の中になった時に、平等に接することができますか?






checkmark.png 3.遺伝子の容れ物としての人間

さて、コピー可能という点では、遺伝子もコピー可能です。
もはや、クローン技術的には、人間のクローンも可能なところまで来ています。

クローン人間は実在するのか?
クローン人間は実在するのか?




年間100頭の食用クローン牛を生産する米企業


カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」は、自分のコピーが存在ことへの倫理的な問いかけにもなっていました。





先ほどのアンドロイドを人間として認めることに心理的な抵抗感がある人は、

遺伝子の存在が大きなウェイトを占めている のではないでしょうか?

確かにアンドロイドには、生物学的な遺伝子はありません。
では、遺伝子が人だったら、それは人だと思えるのでしょうか?

リチャード・ドーキンスは、「利己的な遺伝子」の中で、生物は単なる遺伝子の容れ物に過ぎないのではないか?ということを指摘しました。




つまり、遺伝子による継承性というのが、アンドロイドを受け入れられない理由になるのではないか?と考える人もいるかもしれません。

先日、中国の科学者が、遺伝子編集をした人間の赤ちゃんが誕生したという発表をして、世界中から大バッシングを受けていました。生命倫理的に問題があると叩かれていましたね。

中国の科学者が遺伝子編集した 「ヒト」を作ったと主張。HIV耐性与えるためと説明も信憑性や倫理面に問題 - Engadget 日本版
中国の科学者が遺伝子編集した 「ヒト」を作ったと主張。HIV耐性与えるためと説明も信憑性や倫理面に問題 - Engadget 日本版





しかし、実際にやることと、考えることの間には、深い谷があります。
だから、それがどんなに倫理に反することであっても、考えることだけはできます。

私は、一度「科学技術的にできる」と実証されたことは、やらざるを得ないのが、人の性だと思っています。だから、今回、大バッシングが起きましたが、決して研究は停滞しないでしょう。そして、行き着くところまでいくはずだと思っています。




では、遺伝子編集技術が進み、デザインベイビーが生まれる世界になったとき、そのデザインベイビーは、人であるか?という問いが生まれます。遺伝子の継承性を無視しているからです。

突然変異という自然に起こる遺伝子改変もあるだろ?

というツッコミも当然ありうるかと思います。
したがって、プチ整形のように遺伝子も整形しちゃってもいいんじゃない?という考えもあるかと思います。

では、どこまでの改変までだったら良いのでしょうか?
例えば、この人の遺伝子が含まれた豚についての記事。

Pig-human chimeras contain cell surprise | New Scientist
Pig-human chimeras contain cell surprise | New Scientist






これは、当然人ではなく、豚の形状をしており、豚の体内に人間由来の血液が含まれているそうです。ブヒブヒ言うけど、人の細胞が含まれているのです。

これは、豚で例えただけですが、人にだって同じようにできるはずです。
豚の遺伝子が、含まれた人間だって理論的には、できるはずなんです。

その時、それは人といえるのか?
何%の改変までだったら、人と言えるのか?




checkmark.png 4.人工生命体

さらに思考していきましょう。
遺伝子は、タンパク質の結合によってできています。つまり、それらを人工的に作り上げることも究極的には可能だと言えます。もしも、人間由来ではないけど、限りなく人間と同じ遺伝子を全て人工的に作り上げることが可能になった場合、それは人と言えるでしょうか?

いわゆる人工生命体です。

人間と同じように血が流れ、人間と同じように思考し、人間と同じ感情もあるとしたら?
しかし、遺伝子は、完全フルスクラッチなのです。

天才にも、美男美女にもなりうるし、どんな人にもパラメーターを調整するだけで、生まれることが可能な人工生命体だとしら。果たして、それは人間でしょうか?

森博嗣のWシリーズは、そのあたりに切り込んでいる小説です。




その亜人間とも言うべき、全て人工の細胞で作られたウォーカロン(単独歩行者)が出てくるのですが、人間の定義が読んでいるうちに曖昧になってくるはずです。




checkmark.png 5.情報生命体

さて、いい加減文章が長くなりすぎているので、そろそろ最後にします。最後は、情報生命体です。
先ほどのフルスクラッチの遺伝子は、物理的な存在ですが、それさえも捨てて、全てをビットで表すことができたしたら?

さらに、先ほどの脳の完全シミュレーションと同じように、人間の遺伝子の完全シミュレーションだったらどうか?ディスプレイの中で成長する完全シミュレーションの遺伝子をもつ人は、人と言えるのか?
その境界は、どこまでも曖昧になっていきますね。

脳の完全シミュレーションでも、遺伝子の完全シミュレーションでも良いのですが、全てがビットで置き換え可能になった場合、インタフェイスはどのような形であれ(人型でもディスプレイの中であっても)、その中に存在するものは、果たして人であると定義できるのか?

人と同じように感情をもち(実は感情の定義も難しいのだけど)、人と同じように考え、話すことができる存在が現れたときに、それを果たして人間と定義できるのでしょうか?
TGCAという情報の組み合わせである遺伝子と0と1組み合わせであるビットの世界いずれも、情報であることには変わりはありません。

人を情報に置き換えたときに何が起こるのか?「ニルヤの島」は、そういうことを考えさせてくれます。




もしも、ディスプレイの中の人の完全シミュレーションが、

私は、人なので人権を求める

と言ってきたときに、あなたはどう考えるでしょうか?




eyeglass2.png 情報管理LOGの眼
 人という定義の曖昧さ

今回は、思考実験として人の定義の曖昧さについて書いていきました。これを書くきっかけとなったのは、やはり先日の中国の科学者による遺伝子編集の赤ちゃんのニュースを観たからです。科学技術が、私たちの想像力の限界に近づいたときに、どんなことが起こるのかな?と考えてみると、人間の定義は、どんどん曖昧になっていくのですよね。特にその境界線は、ぼんやりとしており、逆に私たちに「人とは、定義可能なのか?」ということを突きつけてきます。
私は、案外、ほとんど認めてしまうような気がするのですよね。法律的な問題は置いておいて。




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