「AIの遺電子」で気になった話
情報管理LOGの@yoshinonです。
ここ最近の中で、「AIの遺電子」という漫画が、好きな漫画の一つになっています。
短編オムニバス形式なのですが、AIやヒューマノイド、ロボットなどが共存する社会を描いた作品です。
今回は、その「AIの遺電子」において、気になった話について、掘り下げてみたいと思います。
【 AIの遺電子で気になった話 】 1.「AIの遺電子」とは、どんな作品か 2.「AIの遺電子」で気になったお話 3.謎のおばさんがもたらすもの |
上でも書きましたが、最近好きな漫画の1つが「AIの遺電子」です。現在、4巻まで出ています。
こちらが、最新巻。
この「AIの遺電子」というのは、AIやヒューマノイド、ロボットなどと人間が共存する社会で、ほぼ人と見分けがつかない形でそれらが、生活しているというのが、前提となっています。いわゆるポスト「攻殻機動隊」・「アップルシード」のような作品ですね。
しかし、その中で繰り広げられているのは、AI版ブラックジャックというか、AIやヒューマノイドの人間模様(?)を描いたものになっています。ちなみに、ヒューマノイドというのは、この漫画の中では、脳の構造を人間と同じように再現し、人間と同じ権利を持つものとしています。よく考えたら、なかなかファンキーな設定だと思いますよね?

また、AIもこの作品には、実に様々な形で出てきます。
この作品の中では、シンギュラリティ後というような設定(そのようには書かれていませんが、そうとしか考えられない)で、人間を越える判断や能力を持つ存在として「超高度AI」なども登場しています。

また、人間も脳の中にインプラントを仕込み、VRを使いこなしています。

こういう世界観の中で物語が動いているという前提で以下をお読みください。
注:以下はネタバレを含みますので、もしもまだ読んでいないという方は、気をつけてください。
「AIの遺電子」は、どの話しもオチがきちんとしていて、ストーリーテーリングに感心してしまいます。しかし私は、いくつか気になったことがありました。ストーリーに難癖をつけたいのではなく、むしろその物語が内包することに、考えさせられたのです。
その話しには、時々ある共通した人物が登場します。
それが、このおばさんです。

このおばさんは、暴力を振るう男とつい付き合ってしまう女であったり、人生を変えたいと願うダメ男だったりの前に現れます。
例えば、この女の人は、すぐに暴力を振るってくるようなダメ男を好きになってしまう人なのですが、このおばさんに出会い、「頭の中をいじらせて」しまいます(ヒューマノイドなので、物理的に脳に直接アクセスできる)。

しかし、そのおかげで今まで恋愛対象にならなかったような癒し系な男子と付き合い人生が変わっていきます。

なぜ、そのようなことが可能になったのかは、本編を読んでいただきたいのですが、行われた事実を知り驚きはするもののそれを受け入れていきます。
また、DQN(最近、聞かない表現ですが)なこの男の人は、自分の人生を変えたいと願い、同じように頭をいじらせます。

「元に戻りたいとあなたが思ったら、いつでも戻すから」という言葉を信じて。

すると、今まで興味を持たなかったことに興味を持ち、学習への意欲も高まり、今まで魅力的に見えていた世界がつまらないように感じていくのです。外見や服装も変え、別人のようになっていきます。
この時には、もうすでに過去の自分に戻りたいとは思わなくなっていました。という話でした。

さて、私はなぜこれらの話が気になってしまったのか?
たぶんですが、
パーソナリティにおける同一性の保持が揺らぐから
かと自己分析しました。もっと平易に表現するならば、
それは、もはや自分とはいえないのではないか?
でしょうか。
攻殻機動隊2.0において、主人公の草薙素子は、次々にボディ(義体)を乗り換えていきます。義体は、本体にある脳のリモートで動いているという設定ですね。だから、どこでもドアのように、地球の裏側でも瞬時に乗り移ることができるのです。
そこでは、彼女のパーソナリティは、ボディにはなく、ゴーストにあるとしています。
脳の働きを完全にビット置き換えることができるならば、それは可能な未来かな?と思っています。
そこでは、例え見た目が全然違う人のボディに入っても、思考する主体の存在は揺らぎません。しかし、思考する主体そのものをいじることができるならば、どこにその人自身の主体は存在することになるのでしょうか?
謎のおばさんは、「元に戻りたいと、あなたが思ったら、いつでも戻すから」と言いました。しかし、その元に戻りたいかもしれない主体が変化してしまえば、そう思うことすらなくなるというパラドックスをはらんでくるのです。
もしも、精神の整形が可能になる未来が訪れることがあるならば、それは笑い事では済まされない未来になりそうです。その当人たちは、何も思わないでしょうが。

とはいえ、ゆく川の流れは絶えずして~ですが
昨日の自分と今の自分は完全に同じか?
という問いに対して、皆さんはどう答えますか?
私は、微少ながらも差分が生じているので、完全には同じではないと答えると思います。でも、そういう日々の揺らぎ(体調や気分)によって、日々ほんの少し違うけれども、その揺らぎそのものの幅も含めて自分であるとも言えます。
では、10年前の自分と今の自分は完全に同じか?
この問いには、たぶん即座にノーと答えそうです。
今よりも10歳も若く、知識や経験も10年分失われた状態は、今とは同じとは言いがたいです。自身の根幹となるコア部分は、大きな揺らぎは無さそうですが、それでも今より違うだろうと思います。
そう考えると、「自分」であると考えているものは、案外可変的なものなのかもしれませんね。
”ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。”
鴨長明の方丈記より。
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